ここから本文です。
更新日:2022年9月2日
郷美谷ため池
郷美谷ため池の周辺地図
現地を訪れると、余水(よすい)吐きに架けられている橋が一番に目に入ります。
里美町の山あい、標高550m前後の台地に佐世保市では最大の約30万トンもの水を湛える「郷美谷(ごみだに)ため池」があります。
「ごみ」とは、水に溶けた泥土(でいど)の古語であり、湧水が多くみられたことがうかがえます。
里美町は、元々「郷見谷(ごみだに)」と呼ばれていましたが、村をつくる際に平易でめでたい字にしようと、漢字や読み方が「郷見」から「郷美」に、さらに「さとよし」、「里美」へと変わっていったと言われています。
田中森潮さん
郷美谷ため池の管理者の一人であり、柚木地区郷土誌編さん委員長を務められた田中森潮(たなかもりみつ)さんに、ため池や里美町の歴史についてお話を伺いました。
江戸時代の中期に米の増産政策として平戸藩の肝いりで郷美谷一円の開拓が行われ、下流域の大野・中里地区にも農業用水を供給するために、郷美池の下に新たな堤を築き、郷美谷ため池が造られました。
明治維新の後にはさらに新田開発が進んだことから、柚木、大野、中里、皆瀬、相浦の五村を潤す貯水施設として、第二次世界大戦の最中に国や県、5つの村が巨費を投じ、昭和17年に現在の郷美谷ため池が完成しました。
柚木地区には、川谷・相当・転石の3つダムがあり、また広大な官有林を水源とする相浦川水系からの取水を含めると旧佐世保市の約40%の水道水の源となっており、現代においても柚木地区の自然が「佐世保市の水瓶」を担っていることが分かります。
郷美谷ため池にほど近い佐賀県境にはオサエ峠があり、「お才観音」が祭られています。古くから峠や村の入口などに祭られた道祖神(どうそじん)、「塞(さえ)の神」の「サエ」または「サイ」に由来するものですが、吉井の直谷城主であった志佐純量(しさすみかず)の娘、おさい姫が18歳に成長した天文19年に平戸藩主の松浦隆信(まつらたかのぶ)に攻められ島原の有馬に逃げる途中、この峠で命を落とした無念を追悼するためにつくられたとも言われており、安産祈願や願成就のお礼のため、遠路訪れる参拝客もいるとのことです。
コロナ渦をきっかけに、趣味として登山やウォーキングを始める方々もいらっしゃると思います。郷美谷ため池近くには、九州自然歩道の「野鳥と歩くみち」が通っています。大自然の中に身を置いて、ため池の役割や歴史などに思いをはせながら、ほっとひと息ついてみてはいかがでしょうか。
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください