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更新日:2022年7月13日

景観資産【建造物等】

建造物等

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1.西川内橋と竹田川護岸(景資第2-61号:平成16年12月21日登録)

周囲の緑と竹田川の水に囲まれた自然の中で、アーチ型の石橋はひときわ精彩を放ち、護岸は石橋独特の重量感をいっそう引き立てながら、周囲の風景と調和し、落ち着いた景観を醸し出している。

所在地:小佐々町西川内

西川内橋と竹田川護岸

2.松浦鉄道福井川橋梁(景資第2-63号:平成16年12月21日登録)

吉井町にあるコンクリート製3連アーチ橋。旧国鉄線として建設され、現在は、第三セクター松浦鉄道の橋梁として現役で活躍している。特徴あるデザインが、周囲の自然や下を通る県道等と一体となって美しい景観を形成している。

所在地:吉井町直谷

松浦鉄道福井川橋梁

3.樋口橋(景資第2-62号:平成16年12月21日登録)

佐々川本流に架かる唯一の2連石造アーチ橋で、皇居の二重橋をイメージして建造されており、非常に優美な石橋である。

所在地:吉井町大渡

樋口橋

4.祝橋(景資第2-64号:平成16年12月21日登録)

1913(大正2)年架橋。道路舗装と幅増しのため上部の改良が行われているが、石橋自体は架設時のままである。輪石と壁石で異なる石材を使用しているなどの特徴を持つ。橋長16.3mと規模が大きく雄大な景観を見せる。

所在地:世知原町岩谷口

祝橋

5.桐の木橋(景資第2-65号:平成16年12月21日登録)

1926(大正15)年架橋。世知原地区の石橋群の中でも規模は小さい方になるが、アーチや欄干は架橋当時のままで保存状態は良い。周囲の棚田の風景と良くマッチした石橋である。

所在地:世知原町北川内

桐の木橋

6.倉渕橋(景資第2-66号:平成16年12月21日登録)

1919(大正8)年架橋。長崎県内の単一アーチ石橋では最長。姿が美しく、保存状態も良好。

所在地:世知原町矢櫃

倉渕橋

7.古山橋(景資第2-67号:平成16年12月21日登録)

1924(大正13)年架橋。かつての佐世保へ通じる要道に架けられた石橋で、アーチや壁石など、しっかりした工事がなされている。道路面は舗装され、若干修復の跡はあるが、周辺景観ともよくマッチしている。

所在地:世知原町上野原

古山橋

8.旧平戸商業銀行江迎支店(店舗・倉庫)(景資第2-72号:平成17年4月15日登録)

大正2年に(株)九十九銀行(親和銀行の前身)の子会社「平戸商業銀行江迎支店」として設置され、昭和16年に合併されるまでの間銀行として使用されていた。板壁にペンキ塗りの外観は洋風の印象を与えているが、元は白壁土蔵であったという。現在は倉庫となっている。

(注)内部の見学はできません。

所在地:江迎町長坂

旧平戸商業銀行江迎支店

9.旧マルヤマ醤油(景資第2-73号:平成17年4月15日登録)

昭和初期に潜龍酒造から分かれ、その隣で事業を始めたが、現在は営業をしていない。店舗兼住宅として使われていた主屋のほか、醤油と味噌を貯蔵した倉庫、斜面に造られた庭園、市街地を一望する茶室が残っている。

※内部の見学はできません。

所在地:江迎町長坂

旧マルヤマ醤油

10.寿福寺(旧本堂・表山門・西山門・鐘楼・庭園・表参道・西参道)(景資第2-74号:平成17年4月15日登録)

平戸藩主が祈祷所として建立した寺院で、江迎中心部を見下ろす高台にある。江戸時代に建てられた旧本堂や西山門など、境内には数々の歴史的建造物が残る。本陣と同じ庭師の手による庭園も、大変美しく趣深い。

  • 紅葉の時期になると、色鮮やかな「逆さ紅葉」が期間限定で一般公開されます。

所在地:江迎町長坂

寿福寺

11.潜龍酒造(店舗・貯蔵蔵・仕込蔵・煙突)(景資第2-75号:平成17年4月15日登録)

平戸藩主が参勤交代の折りに宿泊した「江迎本陣」に隣接する造り酒屋。国道に面して白壁を見せる貯蔵蔵と仕込蔵は、それぞれ元禄時代と明治時代に建てられたもので、本陣とともに地域のシンボル的存在となっている。長崎県指定文化財「江迎本陣跡」、「山下家もと蔵」に隣接している。

(注)内部の見学はできません。

所在地:江迎町長坂

潜龍酒造

12.中村家住宅(主屋・米蔵2棟・塀)(景資第2-76号:平成17年4月15日登録)

大正7年に建築され、一時は西肥自動車の本社として使われていた豪壮な主屋と、白壁造りの米蔵2棟などが残り、道行く人々の目を引いている。

(注)内部の見学はできません。

所在地:江迎町長坂

中村家住宅

13.中野橋(景資第2-124号:平成21年10月23日登録)

中野橋は二級河川鹿町川の上流部に位置し、大正3年6月に建造された石造りアーチ橋である。鹿町川にはあと2基石橋があったが、河川改修により架け替えられ、中野橋を残すのみとなっている。昭和58年に町の有形文化財に指定されている。

所在地:鹿町町中野

中野橋

14.梅ヶ枝酒造(主屋・住居・瓶詰所・旧むろ・旧仕込蔵・貯蔵蔵・旧北蔵)(景資第2-126号:平成21年10月23日登録)

梅ヶ枝酒造は、7棟(主屋・住居・瓶詰所・旧むろ・旧仕込蔵・貯蔵蔵・旧北蔵)からなる建物群である。建物は、いずれも伝統的な和風建築を基調としたもので醸造家の常として各棟の規模が大きく、またその軸組みや小屋組の架構は大材を用いた豪壮な造りとなっている。またその前景は、大正末期の写真に見られる雰囲気をよくとどめている。平成14年に国登録有形文化財に登録されている。

(注)内部の見学はできません。

所在地:城間町

梅ヶ枝酒造

15.早岐本陣表門及び石塀(景資第2-176号:平成28年3月8日登録)

平戸藩主が参勤交代や長崎勤番の際に宿舎として使用されていた早岐本陣の遺構である。本陣は火事や取り壊しにより、大半を消失しているが、本陣の表門と石塀は当時からの歴史を伝えるもので、早岐地区の歴史的景観の形成に大きく寄与している。

所在地:早岐一丁目

早岐本陣表門及び石塀

16.教法寺(山門・旧山門・レンガ倉庫・石塀)(景資第2-177号:平成28年3月8日登録)

佐世保最初の村長選挙が行われるなど由緒ある寺で、山門は昭和2年に竣工し、佐世保空襲などでも焼失せず残っている。旧山門は文久2年建立で、平成当初に裏門として移築、再建されている。レンガ倉庫は大正期に建設、石塀は文久2年ごろに築造され、各建造物は佐世保の歴史を現在に伝えるものである。

所在地:元町

教法寺

17.旧本村家住宅(景資第2-175号:平成28年3月8日登録)

昭和7年に建築されたとされ、外壁は鉄筋コンクリート、内部は木造の2階建ての住宅である。外周の一間ごとに建てた柱を屋上部分で連続アーチ型にする奇抜なデザインで、モダンなデザインの外観は佐世保市にも類がなく、希少価値の高いものである。

(注)内部の見学はできません。

所在地:清水町

旧本村家住宅

18.佐世保市民文化ホール(旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館)(景資第2-184号:平成29年1月13日登録)

第一次世界大戦における佐世保鎮守府所属艦艇の武勲を記念して建設され、大正12年に完成した。完成後は海軍の催事や合同葬儀などが行われた。一方、市内で初めて建てられた公会堂ということもあり、特に支障がない場合は一般市民も利用することができた。戦後は米軍に接収されていたが、昭和52年に米軍から日本国へ返還され、その後昭和57年から佐世保市民文化ホールとして市民利用が再開された。

(注)平成9年に登録有形文化財となり、平成28年には日本遺産に認定されている。

所在地:平瀬町

佐世保市民文化ホール

19.東漸寺(山門・本堂・御霊殿・書院・庫裡・鐘楼堂・庭園)(景資第2-190号:平成30年2月9日登録)

和銅年間(708年)に行基菩薩により開創された岩問山薬師堂を奥の院とし、寛和2年(986年)に僧観海が現在地へ遷寺した真言宗智山派の寺院である。明治7年(1874年)には中里小学校の発祥の地になる等、人々の拠り所として現在に至っている。本堂は明治時代の廃藩置県に伴い一時廃寺となり、小学校として利用されたが、明治13年(1880年)に寺院として再興する際に再建された。

所在地:中里町

東漸寺

20.旧早岐脇本陣表門(景資第2-199号:平成31年4月9日登録)

17世紀中ごろより平戸往還が整備され、それに伴って平戸藩公の参勤交代や長崎勤番のときの、その従者の宿舎として整備・使用されていた早岐の脇本陣の遺構である。脇本陣自体は火災で焼失しているが、かろうじて残っていた表門(嘉永年間の建築)が、平成5年に住吉神社の境内に移築され、現在でも手水舎として使用されている。

所在地:広田二丁目

旧早岐脇本陣表門

 

21.弓張岳展望台(景資第2-204号:令和2年3月10日登録)

昭和40年に西海国立公園指定10周年の記念として弓張岳の山頂付近に整備された。代々木屋内競技場等の構造設計を担当していた坪井善勝氏による設計であり、3点で支持されたコンクリートHPシェル構造となっている。

所在地:小野町

弓張岳展望台

22.アルバカーキ橋(景資第2-205号:令和2年3月10日登録)

佐世保市中心部の佐世保川に面した「ニミッツパーク」の一部が佐世保公園用地として米海軍より返還されたことに伴い、昭和55年度に架設された。昭和41年に姉妹都市の提携をした米国ニューメキシコ州アルバカーキ市にちなんで名づけられ、日米親善の架け橋にしたいとの願いが込められている。

所在地:湊町~平瀬町

アルバカーキ

23.平兵衛窯煙突(景資第2-207号:令和4年6月28日登録)

当窯は、昭和中期頃に築いた土鍋専門の窯元である。三川内焼は、一般的に白磁や青磁に唐子絵が絵付けされたものが特徴であるが、先祖が京都で、当時の肥前地区にはなかった土鍋の製造技術を習得し、三川内で土鍋作りを始めた。建物と同時期(戦後)に築造されたと思われる煙突は、煉瓦造りで高さが14m程あり、当時の窯業の盛況を示している。

所在地:三川内町

平兵衛窯煙突

24.平戸洸祥団右ヱ門窯(煙突・展示場)(景資第2-208号:令和4年6月28日登録)

三川内の地に平戸藩御用窯が開窯されたのは1622年で、当窯は、その当時の陶工の一人・中里エイこと高麗媼(こうらいばば)を祖とする直系にあたる。昭和初期には宮内庁御用達を拝命した窯である。煙突は煉瓦造りで高さが16m程あり、三川内山では1、2位の高さを誇る煙突で、当時の窯業の盛況を示している。展示場は一般公開しており、その屋根は、現在では非常に希少である平戸瓦を使用している。

所在地:三川内町

平戸洸祥団右ヱ門窯(煙突)

煙突

 

平戸洸祥団右ヱ門窯(展示場)

展示場

25.光雲窯煙突(景資第2-209号:令和4年6月28日登録)

今から約400年前に平戸藩主が陶工である巨関を領内に連れ帰り、陶器を焼かせたのが平戸焼(のちの三川内焼)の始まりである。その巨関の孫である如猿(今村弥次兵衛)は、将軍家献上の御用命を受け、さらに朝廷への献上品を作り嘉納された。その如猿の後裔として、開いたのが光雲窯である。煙突は、昭和50年頃に築造された高さ4.9mの煉瓦造りで、窯はガス窯で、現在も使用し、希望があれば窯を見学することができる。

所在地:三川内町

光雲窯煙突

26.嘉久正窯(煙突3基・工房・展示場)(景資第2-210号:令和4年6月28日登録)

約400年前に平戸藩主松浦候の命により三川内に窯を築き、平戸藩御用窯として歩みを進めてきた。明治時代に、藩窯の制度が廃止されたことから、独立自営の道を進み、商号を嘉久正と定め、今日に至る。煉瓦積みの煙突が3基あり、うち1基は上部に『正』という白い文字が入っている。高さは14m程度あり、当時の窯業の盛況を示している。

所在地:三川内町

嘉久正窯(煙突)

煙突3基

 

嘉久正窯(展示場)

展示場

27.三川内意匠伝習所跡・凝灰岩亀甲型塀(景資第2-211号:令和4年6月28日登録)

三川内意匠伝習所は、後継者への伝統技術の継承と新しい技術の取入れのために明治32年に設立された。現在、三川内意匠伝習所の建物は住宅の一部として使用されている。屋根は平戸瓦で、瓦並みが他のものと逆になっているなどの特徴があり、江戸時代、御用窯の御細工所に使用されていた瓦である。凝灰岩亀甲型塀は伝習所の塀と言われている。

所在地:三川内町

三川内意匠伝習所跡

三川内意匠伝習所跡

 

凝灰岩亀甲型塀

凝灰岩亀甲型塀

28.今由製陶所窯跡(景資第2-212号:令和4年6月28日登録)

昭和初期から中期にかけて使われていた単窯(焼成する部屋が連房式の登窯と違い、単一間(単房)の焼成窯)で、技術革新のなかでガス窯へと変わっていった。三川内山で全景が現存する唯―の建造物で非常に貴重なものである。現在は、まち歩きやはまぜん祭りの時に一般開放し、三川内山の観光資源として寄与している。

所在地:三川内町

今由製陶所窯跡

29.泰平や(景資第2-213号:令和4年6月28日登録)

明治15年以前に建築され、三川内山に点在していた「はたご(旅館)」の一つで窯業関係者や来訪者が利用していた。平成19年に復元・改修され、現在は当時の三川内山地区の写真を展示したり、まち歩きの休憩所として活用している。屋根は平戸瓦で、瓦並みが他のものと逆になっているなどの特徴があり、昭和初期頃まで使用されていた非常に貴重なものである。

所在地:三川内町

泰平や

30.白光窯(煙突3基・工房)(景資第2-214号:令和4年6月28日登録)

江永山における陶業は、寛文10年(1670年)頃に木原の横石家から分業したのが始まりと言われている。その分業した窯元が当窯である。江永古窯で窯業を営んでいたが、江永ダム建設の為、昭和46年頃に立ち退きをし、現在の場所に移転した。煉瓦造りの煙突が3基あり、ガス窯を使用している。現在は主に商用の陶器を製作しており、その当時の伝統を受け継いでいる。

所在地:江永町

白光窯(工房)

31.旧呉福窯煙突(景資第2-215号:令和4年6月28日登録)

昭和初期以前より立忠製陶所、立君製陶所が窯業を営んでおり、昭和25年に統合し、溝上製陶所へと商号を変えた。さらに昭和45年頃には呉福製陶所へと商号を変え平成23年まで窯業を営んでいた。老朽化に伴い令和2年に建物は解体したが、煉瓦積みの煙突が3基残っており、うち1基は上部に屋号の『呉福』という白い文字が入っている。高さは約15m程あり、当時の窯業の盛況を示している。

所在地:江永町

旧呉福窯煙突

32.臥牛窯(煙突2基・窯元ぎゃらりい)(景資第2-216号:令和4年6月28日登録)

1600年頃に臥牛窯の始祖は松浦藩内の大村藩と鍋島藩の藩境にある木原皿山に窯を開いた。窯元を訪れた松浦藩主である松浦鎮信により、『臥した牛に見える窯の形状』から『臥牛窯』と命名され、日本で唯一元禄現川焼の伝統を守る窯元である。平成6年に展示場は火災により焼失したが、平成14年に窯元ぎゃらりいとして建替えられ、初窯開き会等のイベントの時にも活用されている。

所在地:木原町

臥牛窯(窯元ぎゃらりい)

 

お問い合わせ

都市整備部まち整備課

電話番号 0956-25-9627

ファックス番号 0956-25-9678

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